男の切れ味(中) 小堺昭三 [#表紙(表紙2.jpg)] 目 次  村山龍平  後藤新平  野村徳七 [#改ページ]     村山龍平 [#ここから5字下げ] 時代を見通す眼力をもち儲かる新聞「朝日」を創った防御的攻撃型の商人 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔饅頭屋らしからぬ饅頭づくり〕 「そもそも新聞紙の事業は、経営方面と新聞をつくる方面と二つある。この二つのものが調和を保って進んでいって、初めて新聞事業の発達を期し得らるるわけで、それには非常なる才幹機略を要する。  何となれば、いかなる新聞も独力で出来るものではない。政治、法律、宗教、教育、外交、軍事、財政、経済というが如く、各種の科目に分かれるについては、それぞれ学識才幹ある多数の人物を要し、その経営についても同様である。  したがって事業の発達はこれらの人物にまつところあるは当然であるが、しかしこれら多数の人がいささかも内部において衝突することなく、あたかも一人の如く紙面の整斉画一をいたすは主として、その主長なるものの統御的才幹に帰せねばならぬ。  吾輩が朝日新聞の発達をもって村山君の成功なりとなす所以は即ち、この理由にもとづくのである」 「大阪朝日」九千号と創刊三十周年(明治四十年四月)を祝って巨頭の大隈重信が、このように口述している。  ところが日本では——日本人の場合はと言うべきか——経営者と生産する商品のイメージがぴったり一致しないと、歓迎したがらぬ現象が起こりがちになる。  たとえば饅頭は、いかにも饅頭屋らしい人がこしらえたものでないと、その味を信用しないとか、銀行員タイプの洋服屋が縫った背広は窮屈だとか……ことごとに色眼鏡で見てしまう。だから、進歩的知性派の朝日新聞の場合も、経営者は進歩的知性の人そのものでなければ似合わない、というふうに見られてきた。大隈重信が言うように「商品」であるところの「朝日」の紙面づくりと、新聞社自体を経営してゆくことの才覚は別のものなのだ、という点を理解しようとしないのである。 〔「大阪商人」の果断〕  この「偏見」は現代でもなお根深く潜在しているようだ。世界屈指の発行部数を誇る、日本の知性派ジャーナリストたちによってつくられる「朝日」の創業者が、ソロバン高い大阪商人だったことにこだわり、饅頭屋らしからぬ人が饅頭をこしらえて売っている……かの如き色眼鏡で見ているのではないか。  村山龍平を紹介していた、最近のヤング向けの某週刊誌のタイトルも〈大阪商人の資本とカンを「報道」に生かした朝日新聞の創設者〉になっていた。目先が利く商人《あきんど》がインテリ好みの新聞を売っているにすぎない。真の新聞人の良心を編集させたものではなく、商売になるからそうさせていたまでのことだ……などと言わんばかりなのである。  それはともかく——わたしは大隈重信におべっかを言うわけではなく、事業人としての村山龍平の才覚は、やはり超一流であったと見る。元来、インテリは言うこと書くことでは才気煥発だが、企業経営者としての才幹という点では、当てにできないところが多々ある。さる高名な経営コンサルタントが、大企業の幹部らにいろいろと教え込んでいたのに、自分の経営する会社はあえなく倒産してしまった……というおかしな悲劇を例にするまでもなく、経営は口先の理論だけでは成り立たないものなのだ。  大阪商人とさげすまれながらも龍平は、理屈を抜きにして果断にやったのである。ときには口うるさいインテリたちを長良川の鵜《う》みたいにうまく操ったり、命を賭けた時代もあったりで、天下の朝日新聞社に成長させたのは歴史的事実だ。龍平なかりせば、今日の「朝日」は存在しえなかった……このことは万人が認めてもよいのではないか。  昭和八年十一月二十四日、八十四歳の彼は、兵庫県御影の自邸において病歿。晩年、一人娘の村山藤子さんによく、こう語っていたそうだ。 「自分ほど幸福な時代に生まれたものはいない。いわゆるチョンまげの大小時代から洋服で日本最初の先込め銃を持ち、その後、大砲を使って兵隊を指揮し、明治維新と同時に士籍を返上、断髪して上阪、大阪商人の仲間に入り、貿易商を始め、のちに新聞事業を始め、明治、大正、昭和の三時代を経てあらゆる経験を見聞してきた。こんな変化ある永年の時代にまたがって生き永らえたものは珍しいことだ」と。  まさに「男子の本懐」を絵巻物にしたような一人であったのだ。 〔「異人かぶれ」の舶来雑貨屋〕  龍平は嘉永三年(一八五〇)四月の生まれ。伊勢国田丸(現在の三重県玉城町)の藩士、父親の村山守雄は勘定頭、嘉永三年といえばペリーが浦賀に来航する三年前だ。  少年時代の龍平に、一つの忘れられぬ光景がある。大罪人が打ち首の刑になるというので、大人たちに交じり、刑場まで見物に出かけたときのことである。  後ろ手に縛られて連れて行かれる罪人の周りには、黒山の人垣が出来ていて、少年の彼には見えない。強引に掻き分けて最前列へ出ると、無精ひげが伸びている罪人が彼を見つめて、 「坊っちゃん、急いでも無駄です。わたしが行かなきゃ打ち首は始まらんのですから」  と、冷やかな笑みを浮かべた。  罪人のこの一言が、ぞーっと身の毛のよだつ思いになりながらも、龍平には生涯忘れられないものとなって耳に残ったのである。死刑にされる、己れ無き運命にありながら、このときの罪人は己れを有している主役なのだ。人間は死の瞬間まで自己主張するものなのだ、ということを少年の龍平は、天啓の如く悟ったのだった。  内乱を経て明治時代になったとき守雄が士籍を返上、断髪したのにならって、龍平が商人を志して大阪へ向かったのは廃藩置県の明治四年、二十一歳であった。  一年間は急変してゆく世情をじっくり見ていて、翌五年、西区京町堀に「田丸屋」をオープンした。文明開化の世相に即応してメリヤス、ラシャなどの洋布類から帽子、手袋、洋傘、眼鏡、装身具、文房具、ビールなどの西洋雑貨食品に至る「舶来諸物品仲買業」を始めたのである。「異人かぶれ」と指さされながらも、開店一カ月目の総売上高が三六九円あったというから大当たりだった。  同じ町内にある醤油問屋「泉屋」の主人・木村平八は、西洋雑貨商が儲かることから、龍平に共同経営を提案してきた。資本を大きくすれば、それだけ事業が拡大できるので快諾し、「泉屋」と「田丸屋」を合併させて「玉泉舎」に改称した。  思惑どおり「玉泉舎」が繁盛するのは喜ばしい限りだが、同時に龍平にとってこの平八を知ったことが、人生の大きな転機となっていった。平八の媒酌で高槻藩士の娘・津田安枝と結婚(明治八年)したばかりではない。平八の長男・木村|騰《のぼる》に頼まれて龍平が持ち主名義人になり、「朝日新聞」創刊号を明治十二年一月二十五日に発行したのだ。一部四ページで定価一銭、一カ月の定期講読料は十八銭、発行部数三千であった。  社屋は江戸堀南通の小さな二階建ての借家、東京で新品の印刷機械や活字を購入、四十一名の印刷・製版職工も呼び寄せた。題号の「朝日」は「旭日昇天、万象惟明」の義に由ったものであるという。 〔明治のヒュー・ヘフナー〕  この頃龍平は、大阪商法会議所の議員にもなっていた。いちはやく舶来雑貨屋に眼をつけた彼から見れば、大阪人は利得のことでは血眼《ちまなこ》になるが、新時代の内外情勢に関する知識が乏しい。その情報を提供してやるのも事業になりうると判断して、平八父子に協力し、「大阪新報」の津田貞を編集主幹として迎えることに成功した。  この時点で龍平には「儲かる新聞」の新しい構想が閃いていたのではなかろうか。今日で言えば、アメリカに「プレイボーイ王国」を築いたヒュー・ヘフナーの出版感覚に近いように思える。  当時、新聞界は「大新聞」と「小新聞」に分けられていた。薩長出身者が牛耳る政界を、声高に漢文口調で攻撃論破するのが「大新聞」、採算を度外視して学のある少数読者のみを相手にしていた。対する「小新聞」とは、花柳界の艶ダネとか、芸人ばなしとか、市井の事件の報道を軟派調で売りものにしてきた。「朝日」はそのどちらにも偏せず、硬軟とりまぜての、中立色を強めてゆく編集方針をとった。官報も瓦版記事も載せるのである。  その点がいかにも八方美人的大阪商法とも言えるが、のちに「朝日」で健筆を振るうようになった長谷川如是閑は、 ≪明治十年代の政争時代に入ろうとして、新聞が政論中心の「大新聞」と、卑俗の「小新聞」との両極に分れてしまう形勢になったときに、その中間の性格を持った新聞として大阪に現れたのが「朝日新聞」だった。そしてその性格が、ついにその後の日本の新聞の性格を決定してしまったのである。すなわち明治三十年代の末ごろにはフリガナなしの「大新聞」のすべてが消滅して、日本の新聞がその中間型に一定されてしまった≫  と書いている。  つまり、大阪商法でこしらえた新聞が日本人の好みにぴったりしたわけで、発行部数三千はたちまち倍近くに伸びてゆくが、しかし龍平自身、まさか全国の新聞の大半が「朝日」調の中間型になってしまうとは、まったく予想できなかったことだろう。 「朝日」の第一の強敵となったのは、これまた予想外の、身内だった津田貞が反旗をひるがえして発刊した「魁《さきがけ》新聞」である。明治十三年八月のこのときから、龍平は「玉泉舎」も譲渡して「朝日」経営に本腰を入れた。  新聞代は「朝日」の二十五銭に対し「魁」は二十八銭、広告料は「朝日」の一行四銭に対し「魁」は五銭。これでは「魁」の収益のほうが多くなるが、龍平は低価で頑張り通した。向こうが宣伝のための花火大会をやれば、こちらもより盛大な花火大会を開催して対抗する、というふうで、一年間の「激闘」を繰り返してのち、資金が尽きた「魁」が倒れ、廃刊に追い込まれた。  勝ちはしたものの「朝日」も資力をギリギリまで使い果たして、きわどかった。すでに三万円を消費している資本主の木村平八は新聞経営の冒険を恐れるようになり、永続してゆく情熱を喪失してしまった。 「誰でもよいから、後を引き受けてくれる人があれば売りたい」  という平八に、龍平が名乗りを上げた。そのとき——明治十三年十二月の収支は、収入総額が一九六九円九〇銭三厘、支出総額が二三八五円六四銭九厘で、差引四一五円七四銭六厘の赤字になった。  龍平は「魁」との「激闘」中に、終生の片腕となってくれる上野理一を得ていた。  会計担当の有能の士を求めているのを知って、「朝日」ファンであった「宝善堂」という薬種屋の主人が、伊丹の郡役所に奉職していた理一をくどき、「朝日」入社を承知させたのである。龍平はこの二歳年上の理一と二人三脚で新しく「朝日」を——龍平の出資金二万円、理一が一万円の共同経営にしたのだった。木村騰は袂をわかって去った。  龍平はいま一人、小西勝一を得た。理一が引っ張ってきた二十三歳のアルバイト青年だったが、この勝一が営業部員となってからは「朝日」の販売網を電光石火の迅さで各地に広げ、わずか一年にして関西だけでも五十余の販売特約店を新設したのである。 〔村山流「新聞記者掌握術」〕  新聞記者には、やたらと正義感が強かったり、自負心が旺盛すぎたり、思想的にも右もいれば左もおり、奇人めくのも多かったりで、彼らを呉越同舟にするのは、一般サラリーマンに対するのと同じ手段でできるものではない。それぞれに個性的でありすぎるのだ。  では村山龍平はいかなる手段を用いたのか。その典型的なエピソードを「東京朝日」の社会部長を務めた原田譲二氏が、体験談としてこう述べている。 「松山(忠二郎)編集局長の排斥運動を起こしたときのこと、事情を聞こうというので、社長が編集委員を集め、それぞれ勝手な意見を述べさせました。  しまいまで黙って聞いていた社長は〈松山君、諸君がああ言うが、君はそれに対して答弁したらどうです〉と発言したが、松山局長は黙っている。いくらなだめすかしても、局長があくまで沈黙しているので、社長もゴウをにやしたと見え、〈ではやむをえない、私にも考えがある。これで散会!〉と言うて、席を立った。  私たち排斥派は、これで戦争は勝ちだと、大いに楽観していると、翌日また委員会が開かれ、社長はきのうと打って変わった態度で、いかめしい顔つきです。 〈君たちは社中に徒党を組み、局長排斥運動をやっている。実にけしからん。断然やめなければ厳重に処分しまするぞ〉。  この鶴の一声には、みんなギャフンとまいりました」  双方の言い分を聞いて龍平は一旦、中立の立場をとっているかに見せる。だが翌日になると一変、社内の統制を乱す者に対しては、理由はどうであれ厳然たる態度を示す。排斥派にもちょっぴり勝ちを味わわせてやっての、これが村山流の、一般サラリーマンなみにはゆかぬ社員たち掌握術の一つであったようだ。巧みな喧嘩両成敗である。  その「東京朝日」進出は、安枝夫人が病歿した明治十九年であった。京橋区銀座一丁目に、東京支局を開設したのである。  星|享《とおる》(のちの東京市会議長、暗殺さる)が経営していた「めざまし新聞」を三千円で買収、東京朝日新聞社を設立したのは、歌人の小林萬寿と再婚した明治二十一年のことだ。龍平三十八歳。この年、ライバルとなってゆく「大阪毎日新聞」が創刊されている。 「東京朝日」は「大阪朝日」と姉妹紙だから、これまた政党臭のない、公平無私、不偏不党をモットーとし、「ロンドン・タイムズ」を手本にして知識層の読者を求めた。今日の新聞紙の原型である大版にしたのもこのときからだが、あまりの大きさに世間は「沙漠新聞」と呼んだものだ。  清浦奎吾(その頃の内務省警保局長、のちの総理大臣)が、創刊五十周年(昭和四年)を祝して往時を回顧しつつ、こう記す。 ≪当時、朝日新聞は沙漠新聞という批評があった。ただ紙面ばかりだだっ広くて、ちょうど沙漠を見たようで、正味すなわち玉がないというところから、そういう評のあった時代もあった。それがだんだん改良せられて、今日正々堂々たる大新聞となったのは、従業員の終始一貫せる努力の結果であって、文化に貢献するの多大なるを喜ばねばならぬ≫ 〔人材を見分ける特殊の眼力〕  世間が「沙漠新聞」と嘲笑するのには、龍平もよほどこたえたらしく、紙面充実に対する懸命の努力を続けた。新聞事業には見えざる部分に多額の資金が必要だし、それに惜しみなく注ぎ込み、新鋭の印刷機械も据えた。自ら印刷にも立ち会った。  それにもまして欠くべからざるものは優秀な人材を集めることであった。それら人材を見分ける特殊の眼力が、新聞経営者にはなくてはならぬ。 ≪能く人を知り、能く人に任じ、能く人をしてその材を伸ばさしめ、しかも人をして去るあたわざらしめたるもの、村山翁の成功者たるゆえんにおいて決して不思議はあるまい≫  と徳富蘇峰(評論家、「国民新聞」社長)が讃えているのはお世辞ではない。事実「朝日」で育って政界、学界、財界、文芸界など多方面へ巣立ってゆき、名を成した人は無数にいる。現代でも「朝日」出身の著名人がたくさん各界で活躍しているのも、その証拠であろう。  朝日社史編修室が重厚な『村山龍平伝』を刊行(昭和二十八年)したが、その中でも蘇峰はこのように述懐している。 ≪村山君と毎日の本山(彦一社長)君とを比べてみると、その人物器量は大分違う。  本山君は始終ソロバンを手離さぬ人だが、村山君の方はコセコセしない。何も知らないような顔をしていながら思い切ったことをやってのける。鋭い気魄を内に蔵して天下を狭しとする観がある。眼中恐るるところは何もないのだ。  自身は濃厚な貴族趣味を有しながらデモクラシーも理解する。(中略)私は思うのだが、村山君をあれほど偉大にしたのは、やはり本山という男が敵方にいたためであろう。  本山君は始終村山君のあとをつけとおしてはひっかきまわす。村山君としては片時も油断ができない。だから村山君をして、朝日新聞を今日あらしめた最大の功臣は本山君だと考える≫  因みに、本山彦一は熊本出身、福沢諭吉に学び、藤田伝三郎の「藤田組」支配人を経験してきており、龍平は三歳年下のこのよきライバルにも恵まれたのだった。  龍平が「濃厚な貴族趣味を有しながらデモクラシーも理解」したことも、さらに「朝日」の発展へとつながっている。その時代時代、進歩的知識人とか「日本の良心」と目されている執筆者を、思いきって紙面にどしどし登場させたことである。  その点を「儲けるためなら好悪を抜きにして、誰でも利用する大阪商人根性」と見なす者もいたわけだが、幸田露伴、杉村楚人冠、二葉亭四迷、夏目漱石、鳥居素川、長谷川如是閑、坪内逍遥、小宮豊隆、安倍能成、谷崎潤一郎など多士済々。ことに連載小説では四迷の『其面影』、漱石の『虞美人草』は名作として満天下の人気を集めたし、熱血社員として緒方竹虎、中野正剛、石井光次郎らが活躍した時代もあり、大衆文芸では吉川英治の『宮本武蔵』が昭和戦前の人たちには懐かしい限りの大作だ。 〔「朝日」村八分作戦〕  村山龍平はよく孤軍奮闘した人でもある。「朝日」を進出させたときの東京には、敵がウヨウヨしていた。進出阻止の連合軍となった彼らとの「決戦」が第一次、第二次にわたって展開されている。 「めざまし新聞」を買収して始めた資本金四五〇〇円の「東京朝日」は、発行部数六千余だったのが、わずか一年で二万部に伸びた。これで早くも部数は府下第一位である。  恐れをなした「改進新聞」「都新聞」「毎日新聞」が、有力な新聞雑誌取次店である「東海堂」を抱き込み、さらには「時事新報」「報知新聞」「読売新聞」など十三社の経営者たちをも味方につけた。「上方《ぜえろく》野郎に負けてたまるか」の、江戸っ子のプライドもある在京十六社が反「朝日」の同盟連合軍を結成したのだ。明治二十三年三月のことである。  彼らは業界連合会の規約を制定し、新聞雑誌の売捌《うりさばき》人を特約と普通とに区別、「特約売捌人は各社より売り渡す新聞雑誌の原価を、普通売捌人よりも安価に割引して可なる事」その他を取り決めた。これら項目は「朝日」が不利になるよう仕組まれたものであるため、龍平としては断じて従えない。  すると同盟軍は「朝日」が業界連合会から脱退したものとみなし、府下の五大取次店に対して「協力しなければ売掛金の即時清算を請求する」を条件に、「朝日」不売を強行させようとした。「朝日」村八分作戦だ。  五大店主を訪ねまわって龍平は、 「新聞は天下の公器です。私心なく新聞を経営してきたわたしに対し、非難すべき点があれば喜んで忠告に従います。  しかるに、このたびの事件は一、二の策謀に端を発したものであります。天下の公器たる新聞が、謀略に乗ぜられ、醜い競争に陥っては天下に対して申しわけありません。  売捌店は事の理非曲直を弁別して善処されたく、同盟側があくまでもわが社に迫害を加えるならば、村山もやむをえず戦う決心です。また貴下がわが社に加担の場合、同盟諸新聞社が売掛金の即時払いを要求するとあれば、失礼ながらその金は自分がお立替えするつもりで、金もすでに用意いたしております」  誠意をぶつけての懇談におよんだ。  事実、一万六千円の現ナマを持参していたので、五大店のうち四店は龍平を見直した。さっそく関東、東海一円の販売店主らを招集、協議の結果は「朝日」支持ということになったばかりか、逆に十六社の新聞取次販売拒否を声明したのだった。  そのため同盟側が慌てふためき、内輪もめが生じ、彼らのほうが自滅してしまい、「朝日」の販売部数が飛躍するという皮肉な結末となった。たとえば——「決戦」前の静岡地方では東京諸紙販売部数が一日一七四〇部だったのに対し、「朝日」はわずか六〇部。「決戦」後は同盟側の二五〇〇部に対し、「朝日」は一二〇〇部と伸びて急追していったのである。  現在でも人気がある「天声人語」の前身の、小記事または話題を一括した「掃寄」の連載をスタートさせたのもこの時分——明治二十三年一月からだった。 〔奮然たる反撃に出る〕  第二次「決戦」の火蓋が切られたのは翌二十四年夏。  販路閉塞を強行するだけでは成功せずとみた「改進新聞」「都新聞」「やまと新聞」三社が中傷的な宣伝を繰り返すことによって直接「朝日」読者の心情に傷つける……その作戦に出てきた。三紙は一斉に書き立て「発砲」した。十字砲火である。 「東京朝日は販路拡張のため、紙価の特別割引をなして、他新聞の読者を奪取した。しかも同紙はこれに要する多額の資金を獲得するため、松方正義侯の機関紙となり、〈共同倶楽部〉新聞および〈自由倶楽部〉新聞と呼応して第二議会には、政府のために百方弁護の筆を取りもって多分なる保護金を収得した」と。 「朝日」が政府と癒着して「黒い霧」まであるかの如く書かれてはたまらない。この侮辱に対して「東京朝日」は、龍平が指揮して奮然たる反撃に出た。 「我社は常に中正の途を歩んで天下の公器たる新聞の本務に邁進しつつあるは、読者がすでに普《あまね》く知る如くである。我社は断じて松方内閣の提灯を持ちたることなし、過去および現在において然り、将来もまた然らん。  正確にして善良なる新聞を安価に販売なし得ることが新聞経営の眼目である。その機関が整備して多数の読者を獲得すれば、労せずして新聞を安価に供給し得るものである。(中略)  現在優に三万の読者を擁する我社は、関西において六万の読者を有する大阪朝日新聞を有《も》ち、緩急相扶けて共に発展を期しつつあり、何を苦しんでか節を屈し政府の御用紙となって新聞の本道を逸すべきぞ」  事ここに至ってはもはや全面戦争になるしかなく、「改進」ら三社の謀計に参集したのは十七社。再び彼らは同盟連合軍を結束、大手販売店懐柔作戦を展開した。  ところが、東京市内の販売店は冷静で、むしろ十二店は「朝日」の宣伝に努め、加勢するという形勢になってきた。誤算した同盟側は、地方の販売店を「占拠」する作戦に切り替えた。横浜の新聞共同発売会社が彼らに味方したため、龍平は即日、横浜に支局を開設させ、そこからの直配達を行わせて読者の「朝日」離れを防いだ。  まだ鉄道が開通していない千葉県へは深夜に東京を発たせる馬車便での新聞輸送を、龍平が強行させた。それまで正午過ぎに到着していた新聞が、午前八時にはもう読めるというので千葉県下の読者に喜ばれた。  この「宵出し」に対抗すべく同盟側も、配達夫を大量に狩り集め、真紅の半纏姿で「東京十七社新聞大拡張、当分無代進呈」と大書した幟旗を先頭に行進させた。主婦たちが嬉しがる商品をサービスしている現代の新聞拡販合戦も、これと大同小異の観なきにしもあらずだ。進歩していると言いがたい。  無益な「決戦」は終わりそうになかった。  迷惑をこうむる地方販売店主らが上京、仲裁に立ったが同盟側は応じない。  九カ月後の明治二十五年三月、ようやく両軍は和解に達した。各地の販売店も従前どおり、どの新聞も平等に取り次ぐ協定に同意してくれた。  この戦争はしかし新聞界に新しい革命をもたらした。「朝日」が千葉県への「宵出し」を敢行した、それに負けぬためには印刷のスピードを大幅にアップしなければならぬ……という現実になって各社とも、輪転印刷機を導入せざるをえない新時代を迎えたのだ。 〔「高校野球の朝日」へ〕  村山龍平が「朝日」を大発展させえた手腕のもう一つに、文化事業への援助、民間航空界への貢献、社会事業への尽力がある。そのことごとくが「朝日」自体の大宣伝につながる効果となっていったのだった。  弱冠二十一歳で時代に即応する西洋雑貨屋をオープンして以来の、彼一流の勘がはたらくのだろう。世人を注目させることにかけての、宣伝マンとしての感覚も抜群で、明治四十四年、アメリカの飛行家マース氏を招聘《しょうへい》して、わが国最初の空中飛行を敢行した。  マース招聘に先立ち、龍平が世界一周会を企画したのは、明治四十一年正月である。旅行日数九十六日間、会費二一〇〇円。日本の一般人による初の世界観光旅行であり、五十四名が参加したが、その中には野村証券の若き創業者・野村徳七の顔もあった。  第二回世界一周会は四十三年にロンドンで開催される日英博覧会の観覧をかねて挙行している。参加者五十七名、銘酒「大関」社長の長部文治郎らも加わっている。  同年に決行された白瀬中尉の南極探検隊のためにも、龍平は「朝日」紙上に義金募集の社告を載せ、六万円の応募金ではなお不足なので、社として二万五千円を寄附した。この探検の成功が日本人ばかりでなく、世界の耳目を集めたことは述べるまでもない。  今日の甲子園高校野球の前身である、全国中等学校優勝野球大会を「朝日」主催にしたのも村山龍平だった。大正四年夏のその第一回大会は阪急電鉄沿線の豊中運動場で、第三回大会からは阪神電鉄沿線の鳴尾運動場で、そして大正十三年の第十回大会からは、完成した甲子園球場で開催するようになり、人気がいっそう白熱していった。  この大会のアイデアは、阪急電鉄の小林一三のものであったが、主催者はやはり文化事業への援助を惜しまぬ「朝日」と決めて話を持ち込んできた。第一回大会の費用は一万円を要するという。社会部長の長谷川如是閑が龍平に説明すると、一運動競技のために、新聞社が一万円を投ずるなど無謀にひとしかったのに、 「よくわかった。善は急げというから、すぐ準備にかかるがよかろう」  と即座に、この場合も「果敢な決心」をしてみせたのだった。  第一回大会の当日は、紋付羽織に袴姿の龍平自らマウンドに立ち、始球式を行っている。参加校は十校、京都二中が優勝した。「毎日」が春の大会(選抜)の主催者になったり、「読売」の正力松太郎がプロ野球を育てたりしたのは、龍平の亜流と見られた。  太平洋横断飛行に十万円の賞金を出したのは昭和二年。自信のある世界のパイロットたちが挑戦し、これが世界的ニュースになるとともに「朝日」をも世界的にならしめたのだ。  こうした文化事業、民間航空界、さまざまな社会事業などへの龍平の功績を拾ってゆけば無尽蔵にあり——大隈重信の言葉を借りれば「村山君と言えば〈朝日〉を連想し、〈朝日〉と言えば村山君を連想するによってみても、如何に村山君が朝日新聞の経営にその力を用いたかということがわかるので、その点より言えば村山が苗字で、朝日が名前といっても差し支えない」までになっていったのだった。村山朝日、朝日龍平である。 〔受難の足跡〕  だが幾度となく龍平は、国家権力や偏向社会の強烈な「風波」ももろにかぶってきている。言うなれば「言論弾圧」のターゲットにされてきたのであり、発刊停止処分、不敬事件、皇室記事誤植事件など相ついでいる。記者が暴行されたり、社に殴り込みをかけられたりが頻発し、龍平は「亡国的危険人物」と見なされ、しばしば生命さえも狙われた。  最初の受難は明治十四年一月——木村平八に代わって龍平が経営者になってまだ十日目、だというのに掲載した小室信介の「平仮名国会論」が政府当局の忌諱《きい》に触れ、二十日間の発刊停止を食らったのだ。  また「朝日」は連載小説が大衆に人気があるのに着目し、これをスタートさせると読者がますます増加したが、明治十六年に連載した『昔譚花散里』ではモデル問題で抗議を受け、チョンまげ時代の歴史小説であるのに、編集長が禁鋼五カ月の体刑を食らった上に、罰金十五円に処せられている。  こうした「朝日」の明治・大正・昭和にわたる筆禍受難の歴史も、いちいち紹介してゆけば際限なくあり、その大半は隆盛になりゆく龍平と「朝日」を嫉視し、腹黒い政治家や官憲らが陥《おとしい》れんがための策謀を図り、社会問題化させたものがほとんどだ。  その代表的事件が、大正七年の「白虹《はっこう》事件」である。  ちょうど不況に苦しむ民衆の「米騒動」が発生し、暴動となって全国へと広がり、革命へ猪突しかねない不穏な状況下にあった。特に関西がひどくて、これを報道する各新聞は筆鋒鋭く、時の政府・寺内正毅内閣の無為無策を批判したのに対し、それらの記事がさらに暴動を煽動する結果になるのを恐れて当局が報道の自由を封じた。  不当弾圧として全新聞が当局に反発し、関西新聞記者大会では村山龍平を座長にして、寺内内閣弾劾の決議を採決した。ところが八月二十五日の「大阪朝日」の夕刊の、この大会の模様を報じた文中に、 ≪金甌《きんおう》無欠の誇を持った我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではなかろうか。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆が……≫  とあり、これを問題視した大阪府警察部検閲係が、ただちに内務省にご注進におよび、新聞紙法違反で「朝日」を発売禁止処分にすべく告訴した。中国の古書にある「白虹日を貫けり」を「天子を倒す兵乱が起こる」という意味に解釈し、「朝日」にはその思想があり、一方的に「朝憲|紊乱《びんらん》の罪に該当する」と断定したのだった。 〔自らを「打ち首」に〕  この事件には「伏線」がある。  長州閥の独裁政治家である軍人の寺内正毅は、それ以前より大の「朝日」嫌い。首相になった機会にこらしめるべく、これまた「朝日」憎しの内務大臣・後藤新平に弾圧を示唆し、編集局長の鳥居素川を懐柔しようとして失敗すると、大阪控訴院検事長を龍平に会わせ、威嚇的忠言をさせるが、龍平にも「ご忠告ありがたく承りおきましょう」で軽くいなされる。  そこへ突発したのが「白虹日を貫く」だから、国家転覆の思想ありとして寺内らが、ここを先途と攻めさせたというわけだ。発売禁止になった「朝日」と龍平宅には連日、右翼団体からの大量の脅迫状が送られてきた。「朝日」は新聞紙法第四十一条違反で起訴された。まったく身の毛のよだつ時代である。  さらには、龍平が暴漢に襲撃される事件も発生した。人力車で中之島公園内を通り抜けようとした白昼、待ち伏せしていた六、七人の壮士風のあらくれが飛び出してきた。「大不忠者!」と叫びながら一人が、体当たりして俥を横倒しにした。俥夫は棍棒で殴打された。彼らは無抵抗の龍平を袋叩きにしたあげく、樹木に縛りつけ、晒《さら》しものにして逃げ去ったのである。  第一回公判でも、「大朝たおすべし」との内閣中枢部よりの圧力を受けている大阪地方検事局の係検事が「大阪朝日に対して発行禁止の処分を要求する」と論告した。もし、そのとおりの判決が下されれば「朝日」は、この世から消えざるをえない運命になる。  それは村山龍平としては、死ぬよりも辛いことである。企業存続のため彼は、自分をはじめとする編集局幹部の大異動を行う決心をした。彼は少年時代の、罪人が言った「わたしが行かなきゃ打ち首は始まらんのですから」を思い出したのではないだろうか。そして、進んで自分を「打ち首」にする……「朝日」の延命を図る手段は、それしかなかったのだ。  龍平は監査役に退き、上野理一が新社長の座に就いた。鳥居素川、長谷川如是閑、論説委員の大山郁夫らも退職。そして最終判決の三日前——大正七年十二月一日の「朝日」第一面に「本社の本領宣明」と題する、五段にわたる宣言書を発表した。鳥居に代わる編集局長・西村天囚の原稿である。  このなかで新たな「朝日新聞編輯綱領」を開示し、以後の「朝日」の姿勢をこのように改めると、世問に対して宣誓したのだ。 一、上下一心の大誓を遵奉して立憲政治の完美を裨益し、以て天壌無窮の皇基を護り、国家の安泰と国民の幸福とを図る事。 一、国民の思想を善導して文化の日新、国運の隆昌に資し、以て世界の進運と併馳《へいち》するを願う事。 一、不偏不党の地に立ちて公平無私の心を持し正義人道に本きて以て評論の穏健妥当と報道の確実敏速とを期する事。 一、紙面の記事は清新を要すると共に、新聞の社会に及す影響を考慮し宜しく忠厚の風を存すべき事。  この四条を「朝日」は、自己批判の改過状にしたのであった。「朝日」ばかりではない。この事件より日本のジャーナリズムは、権力には勝てぬことを認識し、皇室関連記事にはさらに慎重自粛を心がける風潮になっていったのである。 〔防御的攻撃の時代〕  今日の知識人たちの中には、この「白虹事件」によって「朝日」が全面的に敗退したと、冷やかに見る人が多い。確かに国家権力への降服であった。転向ではあった。しかし、わたしはそれが、新聞人としての龍平の、無節操な姿勢とは見ない。いつか勝つ日がくるのを信じて屈辱に耐えるほかはなかったのである。  屈したからこそ「朝日」は生きつづけた。今日、再びあのような富国強兵の時代の暴力的権力に遭遇した場合、屈伏しない新聞人がいるだろうか。転向を恥とし、権力と敢然と戦って散る言論人や知識人らが、はたして何人いるだろうか。わたしは皆無だと思っている。  晩年の龍平が、一人娘の村山藤子さんに「自分ほど幸福な時代に生まれたものはいない」と語っているのは、幾多の受難をこうむったこともまた、男子の本懐だと自負してきたからなのだろう。大阪朝日本社で行われた定例の通信会議の席上、彼が幹部や支局長ら五十名に対して最後の訓示をしたのは死ぬ一年前——昭和七年十月であるが、 「謙譲は確かに美徳には相違ないが、さりとて相手がさかんに我武者羅《がむしゃら》にやってくるならば、こちらも対抗して相当の態度を持して行かねばならぬ必要が大いにある。これは単に新聞事業ばかりではない。(中略)自己防衛上の対抗手段をとらねばならぬ。所謂、防御的攻撃方針で行かねばならぬ」  と強調しつづけている。  防御的攻撃方針……おそらくこれは「白虹事件」の体験が言わせたのだろうし、現代の企業家たちも、龍平のこの姿勢を学ぶべき時代になりつつあることを改めて認識すべきではないだろうか。 [#改ページ]     後藤新平 [#ここから5字下げ] 「大風呂敷」といわれつつ「満鉄王国」の礎を築いたプロジェクトリーダー [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔「満洲経営」の立役者〕  ——好悪はべつとして、ロッキード事件でつまずきさえしなければ、田中角栄も、現代の後藤新平になれたかもしれない人である。  プロジェクト・リーダーとしては後藤のほうがスケールが大きいように見えるが、しかし日本が戦力をもっていた時代に海外においてやれたことであり、田中の場合は戦力なき現代だから国内でしか実現できなかった……そのハンディがある。いずれにしても田中がめざした「列島改造」は、後藤の「満洲経営」を原型としているようなものなのだ。  プロジェクト・リーダーには意表をつくような独創性はいらない。すでに外国で成功しているものの模倣であってもかまわないし、それらの長所だけを活用してもよい。要は気宇壮大な理想や構想をいだき、先取り精神でもって多くのプロジェクターや専門家たちを演出し、統合しての実行力があるかないか……それが問題なのである。後藤の「満洲経営」には外国にその手本があったし、田中のは七十年前の後藤のそれを活かして、手本にしようとしたところがある。  後藤が南満洲鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に就任したのは明治三十九年一月。  日露戦争に勝ってポーツマスにおいて日露講和条約が締結され、日本が得たものは「韓国にたいする指導権」「旅順と大連の租借権」「南樺太の割譲」「カムチャツカにおける漁業権」、それと「満鉄の譲渡」のみ。「一ピシャージの土地も一ルーブルの金も渡さん」とするロシアのほうが逆に、この講和会議では堂々たる勝者になったのである。勝たせてやったのが伊藤博文であることは、さきに書いたとおりだ。  政府のなかには「ガラクタのごとき満鉄をもらっても仕様がない」とする空気があったし、講和条約締結直後にアメリカから鉄道資本家のハリマンが来日、このように政府に申し入れた。 〔満鉄初代総裁に〕 「満鉄をそっくり、わたしに売ってくれないか。人口のすくない荒野ばかり走る、あんな鉄道では経営は赤字つづきですよ。ロシアがその気になってもういちど、貴国に戦争しかけてくれば、たちまち破壊されるだけです」 「そう言うあなたはどうして、赤字にしかならぬ満鉄を買収したがるのです? そのメリットは何なのですか?」 「わたしには巨大な夢がある。世界のレールをわたしの経営する鉄道会社で独占し、一本につないでみたい。それを実現させるためなら、いくら高くとも買収費用など惜しくはありません」  アメリカ人はもの好きだな、と総理の桂太郎は苦笑しながら、さっそく予備協定覚書なるものをハリマンと交換した。  そこヘポーツマスから外相の小村寿太郎が帰ってきた。覚書を交換したと聞かされるとかれは猛反対した。アメリカのもう一人の財閥モルガンが「満鉄経営のために心要な資金を日本政府に貸してもよい」と言ってくれているからで、桂太郎はハリマンに覚書中止を通告しなければならなかった。  最初、政府は満鉄を国営にするつもりであった。だが、それでは世界の列強が納得しないし、当のロシアも「満鉄は譲与するが、その所有権はあくまでも清国政府にある」として、意地わるく、清国の承諾をもとめるよう講和条約のなかに規定していた。  日本政府が清国との「ロシアの利権引継ぎに関する条約」「付属協定」「付属取極め」に調印したのは明治三十八年十二月。「付属協定」には「東三省(満洲)における開市、開港場の増加、安東県と奉天間軍用鉄道の日本による経営」が、また「付属取極め」には「満鉄並行線の建設禁止」などの日本に有利な条項ばかりが盛りこまれている。  翌三十九年一月には、日露戦争において陸軍総参謀長として武名をとどろかせた児玉源太郎が、外務、大蔵、逓信の三省の官僚から成る「満洲経営委員会」の委員長に就任、つづいて満鉄創立委員長にもえらばれた。満鉄は国営ではなく株式会社として創業することになったのであり、資本金は二億円と決定。うち一億円を日本政府が出資し、残る一億円は一般からの公募とした。  児玉は満鉄初代総裁に「これにまさる人物なし」として当時、台湾総督府民政長官だった後藤新平を推挙した。反対者はいない。 〔児玉源太郎の悲願〕  話は日露戦争がおわった時点にさかのぼる。  陣中見舞のかたちで後藤が、満洲派遣軍参謀本部に児玉大将をたずねた。桂太郎にたのまれて「次期内閣をひきうけてほしい。その意志ありや」を打診しにいったのだ。 「それどころではない。いつまたロシア軍が挑戦してくるかもしれんのだ」  児玉は「ロシア脅威論」をぶちはじめた。  軍事費十五億二千三百万円、日本軍の死者および廃疾者十一万八千人、艦船九十一隻の損害を出しながら辛うじて有史以来の国難をのりきった——それだけに児玉は手放しで勝利をよろこべない。あと一カ月ロシア軍ががんばっていたら、逆転されたかもしれないのである。日本滅亡である。  戦略家の児玉に言わせれば「満洲は祖国のための防波堤」だから、ロシア軍の再度の南下をゆるさないため、一日もはやく日本の満洲経営を確立させ、いっそう強固な防波堤にしておく必要がある、急務であると話しているうちに、後藤が自分の意見をのべた。 「第二の日露戦争に備えるためには、第一に鉄道の経営、第二に炭鉱の開発、第三には大量の移民を送りこむことです。この三つは今日からでもはじめるべきで、十年以内に五十万人を移住させて開拓し、重工業をおこし、いざというときには民兵にして武器をとらせるのです。そうすればロシア軍も、かんたんには進攻してこられませんよ」  児玉は眼をみはった。  民間右翼の黒竜会を主宰する内田良平は、満洲はおろかシベリアとカムチャツカからもロシアの政治的軍事的勢力を放遂することが日露戦争の目的だ、と主張していた。そこまでは日本の兵力では不可能だし空論に近いが、後藤のこの「満洲経営論」こそ現実性のある非凡なる構想だ……と児玉は感心したのだった。  しかも、現に後藤は台湾経営をやっていて実績をしめしている。だから満洲経営委員会の委員長にえらばれた児玉は、即座に満鉄経営を後藤にまかせたくなったのであった。  ところが意外や意外、後藤は大恩人でもある児玉源太郎の推挙を大いに迷惑がり、首を左右にふるばかりだった。  民間会社の形態にしてはいても満鉄の総裁と副総裁は「政府コレラ命シ」、理事たちも政府任命だから国営と変わらない。その上、責任者は外務大臣であり、監督権を掌握しているのは関東都督、満洲派遣軍にいたっては自分たちの御用列車ぐらいにしか考えていない。「そんなふうに政府と軍部の板ばさみになって、両者の顔色ばかり窺っていなければならないようでは何もできません」と後藤は見とおしていたのである。  元老の伊藤博文、山県有朋、西園寺公望首相らも就任をすすめたけれども、頑として応じない。そのとき児玉が五十四歳で急逝するという予期せざる悲劇が突発した。後藤は遺骸の前で泣き伏し、決意した。大恩人の児玉の満洲経営の悲願を実現させてやりたくなったのである。後藤はちょうど五十歳だった。 〔医者出身の辣腕家〕  後藤新平は安政四年(一八五七)に、現在の岩手県水沢市で生まれている。父親は水沢藩士、母親は藩医の娘である。  明治七年、須賀川医学校において西洋医術を学び、同十三年にははやくも名古屋の愛知医学校の若き校長になっている。同十五年、岐阜で遊説中に暴漢におそわれて負傷した板垣退助を診察したのが後藤新平だったことは、有名な話だ。  明治二十五年にはドイツに留学、ミュンヘン大学のドクトル試験にもパスしている。たいそうな秀才であるが、医学にのみ精進するヒューマニストではなかった。出世欲が旺盛だし、政治を弄する俗臭があり、東北人特有のしたたかさもあって、清濁あわせ呑む処世術も心得ていた。そういう点も、田中角栄に共通しているようだ。  内務省衛生局長にまで出世していながら後藤は、ある事件で裁判官を買収したのが発覚、とたんに失脚してしまった。そんなかれに「腐らせてしまうには惜しい人材」と見なして手をさしのべたのが児玉源太郎である。日清戦争後、台湾総督府初代総督となった児玉は、後藤を総督府衛生顧問として台湾に招き、民政長官にまで昇進させた。  児玉の眼に狂いはなく、後藤は植民地行政で才腕を発揮した。「新平は稀代の大ボラ吹きの大風呂敷だ」と世間から言われながらも、かれには西欧感覚でとらえる発想と先見性があった。もっとも力をいれたのが台湾人の「旧慣調査」で、かれらの宗教、習慣、社会などを丹念に調査したり研究したりする。それらを大事にして摩擦を回避しながら、日本の法律、教育を徐々に浸透させ、衛生や文化によって民心懐柔の植民地政策の成果をあげてゆくのだ。  これは後藤ひとりの独創ではない。ちゃんとした手本がある。イギリス、オランダ、フランスなどが東南アジアの植民地政策として永年やってきた、それに倣《なら》っている。  明治三十三年、神戸の鈴木商店(現在の日商岩井の前身)の大番頭である金子直吉が台湾へやってきた。後藤はこの金子に、官営台湾|樟脳《しょうのう》の六五パーセントの販売権をあたえた。民間の商社のほうが販路を拡大させるのは上手だし、台湾の産業振興によい結果をもたらすと考えてのことだが、金子直吉からのバック・マージンも計算していたようなふしがある。これをきっかけとして金子は、鈴木商店を、一時は、三井物産をしのぐ大企業に育てあげたし、お互いに利用し利用されてやっていたと見るべきだろう。  良いことを一生けんめいにやる反面、感心しかねることもかげで人一倍にする……皮肉なことにそういうアクのつよい人物が、いろいろと世間のためになることを成しとげている。つまり、石部金吉では有能なプロジェクト・リーダーにはなれないのだ。  おかげで鈴木商店は巨利を占めるが、二人の関係はずっとつづき、後藤が満鉄初代総裁から転じて逓信大臣、外務大臣、帝都復興院総裁を歴任するあいだも、金子は影の形に添うごとくより添っていたと言われる。 〔後藤の駆け引き上手〕  さて——陣中見舞にいって「満洲経営論」を披瀝したがために後藤は、なおさら児玉に気に入られ、ついには満鉄総裁をひきうけさせられるはめになったわけだが、山県有朋や西園寺公望の頼みさえも頑なにはねつけていたのは、後藤一流のゼスチャーでもあった。老獪《ろうかい》な駆け引きである。 「政府と軍部の板ばさみになって両者の顔色ばかり窺っていなければならぬ、そんな満鉄では思う存分の経営はやれない」  と見とおしている後藤は、山県と西園寺の前でゴネてみせながら、自由闊達に経営するための有利な条件づくりをやっていたのだ。  かれの頭には、イギリスの東インド会社があった。これは一六〇〇年に設立されており、エリザベス女王から東インド貿易の独占権があたえられ、オランダと競争してインド経営に乗りだし、ムガール帝国の衰退につけこんで西岸のスラトを根拠地として、カルカッタにいたる海岸線を確保、インドの綿織物の輸入を主要な仕事とした。  さらには貿易だけでなく、領土の支配権を得てフランス勢力を駆遂、一七八四年には会社を本国議会の監督下においた。一八〇〇年代には阿片によって清国を侵蝕し、巨大な利権を掌中にしたのもこの東インド会社であり、後藤新平の構想では満鉄が独占権をにぎってその役割をはたし、結果的に国家利益につなげてゆくのがよいとしているのだった。そして、いずれは満洲国を建国することで、領土の支配権をも得ようというのである。  ただし、後藤は阿片戦争にみられるような武力行使による侵略を考えてはいない。民心懐柔による経済戦略の成功が、ひとりでに兵力の増大にもなってゆく、という発想なのである。暴力では民心はおさえられない。  結局、元老の山県さえもがしたたかな後藤の術中におちいり、かれの条件を呑まざるを得なかった。そのことを当時の内務大臣原敬は『原敬日記』にこう誌している。 「その要は満洲鉄道経営を主とし、都督行政を従として施設することに山県ならびに大島(義昌=陸軍大将・満洲都督)の同意を得、武文官の容喙《ようかい》を許さずして十分に経営に任ずることに決定せり」  創業された満鉄の仮本社が東京麻布におかれたのが明治三十九年十二月、翌年三月には大連へ移された。満鉄への日本政府出資財産の引き継ぎと引き渡しがスムーズにおこなわれた。陸軍より野戦鉄道提理部、運輸部、経理部が引き継がれ、鉄道、炭鉱、建物、ロシアが譲渡した租借地などが引き渡された。  鉄道は大連《ターレン》から長春《チャンシュン》までの七百キロ——新幹線にたとえると東京から相生・岡山の中間までの距離である。長春よりさきはロシア所有の東支鉄道であり、これがシベリア鉄道へと連結されている。七百キロの沿線は付属地になっており、中国側の法律がおよばぬ治外法権区域で、一キロごとに二十五名の鉄道守備隊を配置してよいことになっている。全員で六個大隊になったが、これがのちに独立兵団のごとき関東軍として増強されてゆくのである。 〔午後三時ごろの人間は使わない〕  プロジェクト・リーダーとしての後藤新平は「日本の東インド会社」をめざして、まずは強固なチームをつくるための重役人事に腐心している。自分は初代総裁と関東州庁行政顧問を兼務し、副総裁の中村|是公《ぜこう》に同庁民政長官を、理事久保田政周にも民政部長を兼任させた。官僚と満洲派遣軍の独走にブレーキをかけるためである。  文豪夏目漱石と同級生であるのが自慢の中村是公は、野性味のある台湾総督府の総務局長で、後藤がふところ刀としてひっぱってきた。久保田政周は栃木県知事である。  ほかに理事として鉄道技師の国沢新兵衛、秋田県知事の清野長太郎、法学博士で京大教授の岡松参太郎らがいる。岡松は台湾における後藤の「現地人に適した法律を研究するための旧慣調査」をやって植民地行政を大いに扶けたブレーンの一人である。  あらたに田中清次郎と犬塚信太郎を理事に加えた。二人とも三井物産社員、田中が長崎支店長、犬塚は門司支店長だ。おもしろいことに後藤は、清野知事や岡松博士もふくめてこれら理事たちを、在官のまま任命している。県知事の職務にはげみながら満鉄理事としても活躍してくれ、と言うのであり、田中や犬塚にしても、三井物産に在籍しながらなのである。後藤とすれば「そのほうが視野も広く多くの情報を収集できる」からであった。  しかも官界、学界、あるいは経済界の中核であるこれら理事たちは、みな三十代と四十代だった。後藤はフレッシュな情熱がある人材に賭けたのである。かれは、 「わたしは午後三時ごろの人間を使わない。昼間の人間のほうがいいのだ」  と口ぐせみたいに言っていた。「午後三時ごろ」とはよく言ったものである。いまの流行語にすると「窓ぎわ族」というところか。  ——余談になるが、今日の読売新聞社は後藤新平なくしては存在しない、と言ってもオーバーにはならない。  大正十二年末、難波大助が摂政宮(現天皇)を狙撃する「虎ノ門事件」がおこった。その責任をとらされて、警備責任者である警視庁警務部長の正力松太郎は免職となった。当時、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣になっていた後藤を、三十八歳の正力は大磯の別荘にたずねた。潮風に吹かれながら二人は大磯海岸を散歩した。「五万部におちこんでいる読売新聞を買収して拡張し、これからのわたしは新聞人として立ちたい。買収費に十万円ほど必要です」という正力に、後藤は無造作にふところから一通の書類をとり出して「これをもって三井銀行の頭取のところへゆけ。十万円は貸してくれるだろう」と手渡した。  後藤名義の大磯の別荘の登記書類で、これを担保にしろというわけだ。  その十万円を資金にして今日の読売新聞社に発展させた正力松太郎は、その恩を忘れることなく、後藤の死後、水沢市に自費で「後藤新平記念館」を設立したほどである。逆に言えばそのように後藤は、これは見どころがあると見た人物には、惜しげもなく私財も投げだしてやる男だった。 〔五族共和のユートピアを目指す〕  後藤新平がつくった満鉄の機構は現業部、地方部、調査部の三つであった。現業部には鉄道、港湾、炭鉱などの現場を統括させ、地方部は付属地の行政と文化を担当、調査部には台湾のときのような「旧慣調査」ばかりでなく、満洲、中国、蒙古、ソ満国境などの民意や兵力の動静も把握させた。排日感情をもつ馬賊や民衆が蠢動《しゅんどう》するからである。治安も相当にわるかった。  そのため満鉄調査部はのちに、関東軍の特務機関とも連繋プレーをやるこわい存在となり、一部では支那破落戸《しなごろ》とよばれる無法な大陸浪人らを手先に、謀略をもやるようになった。だが、大部分の調査マンは開拓のために真剣に尽している。  昭和七年春に満洲国が独立したとき、満洲国政府の初代国務院総務長官になった駒井徳三は、北海道大学出で若いころは満鉄調査部にあって活躍している。とくに蒙古の鉄道、畜産、人文地理、衛生について担当し、みずから危険な奥地へおもむき「白音太来《バインタラ》(東蒙古)の十一万町歩の広大な蒙地を買収して鉄道を敷設すれば、日、満、蒙三国人共同の理想郷の建設も可能」という調査報告書をまとめあげ、それを見せられた後藤は、 「これぞわたしの念願とするユートピアだ」  と踊りあがってよろこんでいる。  要するに、前述のごとく後藤は、武力侵略ではなく満鉄がリーダーとなって経済力をつけ、ゆくゆくは満洲、蒙古、シベリアにまたがる五民族による共和国の建設を狙っていた。それがロシアの兵力の南進を防ぎ、日本の国家利益にもなるというのだから、世人はますます「できるわけないよ。どこまで大ボラ吹きなんだ」と相手にしなくなるのだった。  駒井徳三も後藤に心酔したからこそ「笑わば笑え」で大理想にむかって猪突したのであり、その情熱は『支那産業研究』『支那金融事情』などの著書をも生んでいる。この本は第二次世界大戦後の毛沢東の時代になっても、中国共産党員たちの経済を発展させるための「教科書」として活かされたくらいである。  現業部は撫順炭鉱、鞍山製鉄所を拡充し、汽車工場や港湾施設を完備させ、倉庫業や海運などの傍系会社の創業にも力をいれた。今日でいうコングロマリット経営であり、また地方部は付属地に商工施設、病院、学校、試験場や研究所などを新設した。中国人のための教育施設や消防、保安設備なども併設してゆくのである。ホテルや酒場も開店した。 〔枯死世界に甦る生の息吹〕  こうして枯死世界であった満洲大陸は、まるで血がかよいはじめたかのごとく活動しだした。後藤の青写真は一つ一つ現実のものとなってゆき、巨大な「満鉄王国」に成長していったのだ。創業当時、野戦鉄道提理部から引き継がれた職員が三百人余、雇員は日本人も中国人もふくめて四千六百人余だったが、一年後の明治四十年には総数一万三千余人、うち中国人も四千人余になっている。  日本人移民のほうはどうかというと、満鉄が稼動しはじめた明治三十九年には七万六千人余の居留民がいた。それから二十五年後の昭和五年になって二十三万三千八百人、昭和十年で四十九万四千七百人、ようやく児玉源太郎の悲願だった五十万人に達した。百万人を突破するのにさらに五年を要した。  後藤とすれば、急速に日本人移民がふえてくれないのはもどかしいが、それにかわるものとして中国本土からの中国人移民が急増するのはありがたかった。満洲の人口は約一千万人、移民数は大正十二年で三十四万二千人、昭和二年には百一万七千人、同五年までにはやくも総計五百八十二万人を突破、人口も三千万人になった。  そのほか山東苦力《シャントンクーリー》とよばれる季節労働者が毎年、山東省からやってくる。かれらを山東半島の蓬莱《ボンライ》から満鉄の貨物船に積み、大連へつれてきて、そこから鉄道で鞍山や撫順まで送る。五十万人をくだらない。つまり、かれらから往復の船賃と汽車賃を得るのだ。  スピードアップの時代がくるのを予測し、大量にはやく輸送するために後藤は、快速列車を走らせる研究もやらせた。これはのちに「あじあ号」となって実現している。  中国人移民や山東苦力がおびただしく満洲へ流入する最大の理由は、働き口が多くなったのと同時に、阿片ほしさである。中国本土での阿片の吸飲は禁止されたが、満洲にはその法律がなかったし、日本の軍部は商社と結託して輸入させていたのだ。これもイギリスの東インド会社が、中国侵略のために使った手であることは述べるまでもないだろう。 〔新都市づくりに情熱を注ぐ〕  後藤新平の構想のうち、最高の傑作は新しい都市づくりであった。  大連の市街はドイツの都市の再現にすべく、公園を中心とした放射線状の、アカシヤの並木がある道路にした。さらには長春を「満洲国が誕生した場合のメトロポリス」とすべく、城外にとてつもなくでかい西欧風の新市街の建設に着手させ、これを「新京国都計画」と称した。  まずは道路づくりだが、当時としては狂人と思われてもいたし方ないほどの、滑走路のような道幅にした。その図面を見せられた担当の土木課長が「何を走らせるつもりですか!」と眼をむいたのに対し、後藤は「いまは洋車《ヤンチョ》(人力車)や馬車《マーチョ》だがね。ロシア軍を迎撃する場合は騎兵隊と砲兵隊と歩兵部隊とが、並列して通過できるじゃないか」と涼しい顔で答えている。今日の韓国では一旦緩急《いったんかんきゅう》の場合にそなえて、高速道路はジェット戦闘機の滑走路に使用できるようにつくられているそうだが、これなども後藤の発想の応用と見ていいだろう。  大正十二年の関東大震災の直後、帝都復興院総裁として後藤は東京再建を手がけるが、このときも長春そっくりの大道路建設からスタートさせている。 「ここは満洲大陸じゃないぞ。大きけりゃいいっていうもんでもあるまい」  政府と東京市議会がこぞって反対、これにはしたたかな後藤も中止せざるを得なかったが、その名残りは現在もある。上野広小路、昭和通り、青山通りがそれだ。これら大道路をかれは、京都のそれのように碁盤目にするつもりだったのだ。  現代ではラッシュ時には、もはや上野広小路も青山通りも道幅はせまく車は渋滞してしまう。今日このようになるとはだれにも予想できず、予測できていた気宇壮大の後藤を狂人あつかいにしたわけである。  長春では後藤の精神と「新京国都計画」は活かされ、後輩たちが建設を続行した。昭和十二年当時、その国都建設局長に就任した関屋悌蔵は、なつかしみながら誇りをもってこのように書いている。 「われわれは当時、世界の都市計画として喧伝されたオーストラリアのキャンベラや、ヒトラーのニュルヘンベルグ計画と勝負する思いのほかに、パリ、ウイーン、とくに北京の歴史的英雄的手法を近代化することを併せ望んで壮烈な精神を傾倒したものであった。それが玄関口で満洲国と共にこと終ったとあって、実に残念至極であったことは申すまでもない。(中略)  今日ときどき新京の様子が私に伝えられる。われわれの計画全体はそのまま誠意をもって保護育成されている。(中略)中共はこれを『文化の都』として大切に育ててくれている。今日、国際都市計画界において、長春と名の変わったわれわれの『都』は世界的なものとして立派に評価されているのである」  太平洋戦争後、長春を見たアメリカの特使ウェデマイヤーは「新京国都建設計画はおどろくべき世界的な傑作」だと驚嘆している。後藤精神は上野広小路や青山通りに残っているだけでなく、それは昭和三十九年のあの東京オリンピックのさいにも、いかんなく発揮されているのである。  東京オリンピックの施設関係の中心技術者の多くは、新京を手がけた人たちであり、当時の研究を現代にマッチさせて完成させたのだから。いうなれば後藤新平は、古い時代のプロジェクト・リーダーではなく、今日なお生きているのである。 〔後藤と張作霖の奇しき縁〕  後藤は満鉄には一年八カ月いただけで、総裁の座を中村是公にゆずっている。  わずかな期間に、あれだけの基礎固めをしたばかりでなく、後藤精神を継承してゆくブレーンを育てあげたこともまた偉大というほかはない。かれに魅力があったればこそだろう。  その後も後藤は、満鉄を忘れてしまったわけではない。かれは明治四十一年には第二次桂太郎内閣の逓信大臣になり、大正元年の第三次桂内閣においても逓信大臣に返り咲き、大正五年の寺内正毅内閣では外務大臣に指名されている。逓信大臣、外務大臣は満鉄に対する監督権をもっていたので、情熱的に後輩たちにアドバイスしている。  後藤が邪魔者に思っていた男が、一人だけいる。馬賊のボスから奉天軍閥の大元帥にのしあがってきた張作霖である。場合によってはロシアの支援を仰ぎかねない。かれは満洲人のアイドルだった。その子・張学良もなかなかの若武者である。  大正二年春、桂太郎、後藤新平は来日した孫文と会談し、張作霖を嫌う孫文に桂も後藤も支援を約束している。翌三年、孫文が黒竜江方面の軍閥と連絡して張を亡きものにしようとしたとき、後藤は満鉄理事の犬塚信太郎を、孫文の片腕である蒋介石に協力させている。蒋は石岡と名のって日本人になりすまし、長春の名古屋ホテル(のちの第一ホテル)に宿泊、張暗殺のチャンスを狙うがはたさずじまいになった。  その後満洲一の軍閥となった張作霖は北京をも占領、日本と清国間の「ロシアの利権引継ぎに関する条約」を無視し、満鉄と並行線になる打通鉄道(打虎山→通遼)を建設、中国人の乗客をごっそり横どりして、満鉄に打撃をあたえようとした。  昭和二年のことである。翌三年六月、張作霖は関東軍高級参謀の河本大作とその部下たちに、列車ごと爆殺されてしまう。消されてしまったのだ。 「これで満鉄も安泰だ、発展あるのみ」  と思ったのも束の間、後藤新平は翌四年三月三日、この世から去らねばならなかった。講演旅行で西下中、京都の近くまできて、列車内で脳溢血のため倒れたのである。七十二歳。張と後藤はお互いに嫌っていながら、共に列車内で死ぬとは奇しき縁である。 〔叔父新平にならった椎名悦三郎〕  後藤は、自民党副総裁にまでなった椎名悦三郎の叔父にあたる。椎名も岩手県出身で昭和八年に渡満、満洲国政府実業部計画科長に商工省から転任させられたのだ。  満洲開拓期における新平叔父の業績のかずかずに感心した椎名は、自分も臨時産業調査局なるものを設置し、三カ年一千万円の予算をもらった。  そして、電源開発をやろうとしたかれは、安部孝良という風変わりな老人と仲よくなった。  築地の工手学校電気科卒の安部はなんと、台湾総督府時代からの新平叔父の部下で、台湾から中村是公と共についてきたという。  台湾での安部は後藤の計画で水力発電——つまり、エネルギー開発のための二十三もの水源地を建設したベテランだった。椎名悦三郎はたのもしく思い、この安部老人と組んで、七十万キロワットの電力を供給するための水豊ダムを鴨緑江に、松花江には四十八万キロワットの豊満ダムを新設すべく調査し、五年がかりで完成させた。  これなども後藤精神の発露であるし、現在の水豊ダムは、朝鮮民主主義人民共和国の重要なる電源になっている。水豊ダムを見おろす山頂には、安部孝良の死後、その功績をたたえる記念碑が建てられたが、これが現存しているかどうかは定かではない。  アメリカも後藤新平には多大の関心を寄せていたとみえて、かれと満蒙に関する莫大な資料が、ワシントン国会図書館に保管されている。もちろん、進駐してきた終戦後に日本において収集したのである。  ——私ごとになるが一昨年、ある雑誌に『旧満洲を貸してください』と題した拙いエッセイを寄稿したことがある。  いまこそ日本政府が正式に中国に対し、 「旧満洲を日本に、五十年ばかり貸していただけませんか。五百万人ほど自由移住させてください。そのかわり立派に開発してお返しします。新幹線を走らせ、道路も工場もつくります。大森林や近代的農園や高層住宅、ゴルフ場や競技場、空港にテレビ局なども建設してあげましょう」  と申し入れてみてはどうか。  もし実現すれば、中国側はむろん、日本のためにもなることは明白だ……というのが私の持論なのだが、これは後藤新平のアイデアの盗用ではない。防衛力を増強させたりすることより、むしろ、こうした発想のほうが現代では必要ではないか。真に日本が平和主義国であるためには……そう思ったからである。  こういうものを実践できるプロジェクト・リーダーが出てきてほしいものだ。 [#改ページ]     野村|徳七《とくしち》 [#ここから5字下げ] 「情報と人材」を武器に一代で「証券野村徳七王国」を築き上げた稀代の「切れ者」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔スケールの小さい慎重居士〕  大阪は東区農人橋詰町の、名もない銭両替商の小伜だった二代目野村徳七が、丁稚小僧をひとり雇って有価証券売買の「野村商店」ののれんを出し、北浜に出入りするようになったのは明治三十四年、工兵伍長で除隊した二十四歳のときである。学歴は市立大阪商業学校中退。「せめて鴻池財閥ぐらいにはなってみせる」という野望を抱いて株屋になったのだ。  が、「株は高く買って安く売りなさい」をモットーとしていたので、北浜の証券マンたちからは「それでは損するだけや」と嘲笑されっぱなし、顧客にはそっぽを向かれた。儲けさせてくれぬ株屋に用はない、というわけである。  一〇〇円で買った銘柄が九〇円、八〇円と下落したところで手放してしまえ、と徳七は単純にすすめているのではない。たとえばAという金業の株価が一〇〇円であった場合、これから先ゆきもっと高値になると思えば、一〇三円とか一〇五円で買えばたちまち欲しいだけの株数が手にはいる。一円でも安く買おう、九〇円台になるときがあるかもしれぬ、とケチって待っているあいだに相場はどんどん高騰していって、一二〇円とか一三〇円になってしまう。つまり、せっかくの優良銘柄を買いそびれるのだ。  手放して利食いしたいときは、その逆のことを考えるべきである。現在、A株は一五〇円になっているが、もう一両日待てば一六〇円になりそうだ。そのへんが天井だろうから「天井すれすれまでいって、一五九円とか一五八円とかで売ったほうが得だ」と、だれもがそのように考える。  ところが、そうした強欲がせっかくの儲けをのがしてしまう結果になりかねない。今日でもそうだが「株価は生きもの」である。思惑がはずれて一五〇円を天井にしてA株が、一気に暴落しはじめる場合もある。そうなるとこれまた売るチャンスを逸したことになるし、だから一五〇円ていどで欲をおさえて売っておくほうが賢明なのだ。  要するに、徳七のいう「高く買い、安く売る」は極端を戒め、一種の中庸かつ堅実の道を説いているのであり、「ほどほどに儲けてゆくことこそ、損をしない最善の方法だ」というわけである。この真理は古今東西変わることがない。だが、一攫千金を夢みる相場師たちとすれば、そんな野村徳七は、スケールが小さく愚鈍、小心翼々、若さのない慎重居士であって嘲笑されっぱなしだったのだ。 〔徳七と鈴木久五郎〕  明治三十七年、日露戦争がおこったとき、東京の兜町でも大阪の北浜でも相場師たちが売方と買方にわかれて、火花を散らすイチかバチかの大勝負を展開した。証券取引所は鉄火場さながらになった。大衆投資家たちまでが、その尻馬に乗っかって儲けようとした。 「日本が勝てば持株が暴騰して大尽になれるが、ロシアが勝てば日本人は、天皇をはじめみんな奴隷にされる。株式相場で負けても借金は払わんでもよくなるんだ。くよくよすることはない」  という捨身の一戦だったが、戦争は日本軍の奇跡の勝利でおわったため、鐘紡株と東株を買いまくっていた東京の鈴久こと鈴木久五郎は一躍、天下の成金となった。今様紀伊国屋文左衛門というわけだ。将棋の「と金」をもじった「成金」という新造語ができたのはこのときである。  徳七は鈴久より一歳年下だが、この大博奕には加わらず鳴りをひそめていた。そして、ボロ株と嫌われて二〇円に下落していた大阪硫曹株を、こっそり買いだめした。戦後にはこの会社内容が見直され、一〇〇円まで高騰して彼は六万円を利食いできた。大阪電燈株でも十万円余をつかんだが、鈴久のほうはしめて千二百万円、現代の貨幣価値に換算すれば三百億円以上をふところにしたのである。 「捨身の一戦に勝った成金鈴久こそ、度胸のある男のなかの男。卓抜した見識もある」  羨望して世間は英雄視したが、果してそうなのか。徳七が呵々大笑し、鈴久がスッテンテンになって泣かなければならぬ日が、すぐにやってきたのである。 『伊藤博文』のところで述べたように、日本人には「外国との戦争に勝てば大儲けになる」という先入観があって、日露戦争後の戦勝景気がつづき、証券界も活気を呈していた明治四十年はじめ、構造不況が迫ってきているのを恐れて徳七は「相場は狂っております。危険です。しばらく休養して将来の大計を講ずるべきです」との警鐘を乱打した。十年前の日清戦争後の好景気はわずか一年でしぼみ、株価は軒並み暴落していった。その恐慌が今回もやってきていると警告してのことであり、徳七は売方にまわった。暴落で儲けようというのだ。  だが、証券界では同調するものはごくわずかしかおらず、「臆病者の徳七の頭こそ狂うとるのや」と、その弱気を笑っている。株価が下落する気配はまったくない。成金鈴久はさらに強気で買いまくり、彼に倣って北浜の相場師も大衆も眼の色をかえて買っている。  徳七は金策に窮した。野村商店の倒産は時間の問題となった。徳七に同調した売方の多くは、借金が払えずに夜逃げした。徳七は鴻池銀行上町支店長の柴山鷲雄(のちに徳七の片腕となり、大阪証券取引所理事長をつとめた)に三拝九拝して一〇〇万円を融資してもらい、それを売りのための軍資金に注ぎこんだ。しかし焼石に水、株価の騰勢はそれぐらいで冷えこむはずもなかった。 「もうあかん、野村商店はお陀仏や。借金かかえたまま徳七はんは淀川に身投げして、あの世へ逃げるしか手はおまへんワ」と証券マンたちはおもしろがっていた。証券界では敗北者が首を吊ったり、投身自殺したりするのはよくあること。スリリングなドラマで同情するものはいないのだ。  おもしろがられても徳七は諦めず、最後の手段として老舗岩本商店の二代目岩本栄之助(彼もまたのちに敗北者となりピストル自殺した)に泣きついた。売方にまわって手持の大株をことごとく売りあびせ暴落のきっかけにしてほしい、と哀願したのである。  鈴久と同齢の栄之助は快諾した。翌日——明治四十年一月二十一日、栄之助が前場で大株を成りゆき売りすると、全銘柄の株価は雪崩《なだれ》現象をおこしてストップ安。これを見た買方陣もあわててドテン売りに転じたため、劇的な大崩落の日と化して日露戦争後のパニックの端緒となった。兜町でも同じ現象が見られた。鐘紡株を買い占めていた鈴久は、必死の防戦買いに出た。儲けた千二百万円をつぎ込んでなおまだ自負していたのだ。  だが、バックにいた安田財閥の安田善次郎が「バカ遊びの明け暮れで、ソロバン無視の相場のやり方では先ゆきは知れとる。いまにカネに殺されるぞ。あの男はカネの使い途を知らん。自業自得やて」と愛想をつかしたため軍資金がままならず、家財も田畑も手放さねばならずで鈴久は、丸裸になっても債鬼に追われ、当時の文章を借りれば「成金の栄華も槿花《きんか》一朝の夢と消えた」のである。あとで判ったことだが、鈴久が必死に防戦買いする鐘紡株を、善次郎は片っぱしから売っていたのだ。 〔情報に支えられた強さ〕  野村徳七の勝因は何であったのか。 「高く買い、安く売る」の中庸の道をえらぶ慎重居士だったためばかりではない。自分の足で納得が得られるまで調査すること、交通も電信もまだ不便な時代なのに情報収集をおろそかにしなかったこと——この二つに徹した成果なのである。  ボロ株の肥料メーカーの大阪硫曹株をひそかに買いあさったのは、会社内容を自分で調査し、見直される時機がくる自信をもったからである。大阪電燈株を買ったのは「増資のための極秘会談を、大株主と重役たちがやっている」情報をいちはやくキャッチしたからなのだ。間髪を入れずの行動である。  大阪毎日新聞経済部記者の橋本奇策を、徳七はそれまでの二倍のサラリーを払って野村商店に迎えている。そして、さっそく調査部門を担当させた。当時はまだどこの証券会社も調査部などおいてなく、企業家が新聞記者をブレーンの一人に加えること自体、たいそうユニークな発想であった。どこの証券会社にも角帯感覚しかなかった時代である。  また、橋本奇策には「諸会社、銀行などにおける内外の状況を調査した」日刊「大阪野村商報」なる情報紙を発刊させ、大衆投資家たちのための株式投資研究の資料および指針にさせている。これは証券界における最初のサービス刊行物であり、のちに北浜でも兜町でも同業者らがまねて、種々のパンフレットを出すようになった。  今日の野村證券は「調査の野村」といわれる。野村総合研究所を世界的なものにして、たんに国際経済関係のデータのみならず、世界各国の政治の動向から軍事面のぼう大な情報をも収集分析しているが、そのスタートは二代目徳七が調査と情報を最大に重視したことにある。 〔二十世紀を見通した眼力〕  橋本奇策を迎え入れたのをはじめとして、徳七は「人買い徳七」ともいわれるようになる。これはと思う人材を、彼は「日本一高いサラリー」を支給する条件でスカウトしてくるのである。一〇〇万円を融資してくれた鴻池銀行の柴山鷲雄(東京帝大卒)をも自分のブレーンに加えている。日本銀行や三井物産からもどしどし引き抜いてきた。  柴山が無担保で一〇〇万円を融資したり、岩本栄之助が売方となって協力したりした事実もたんに、野村徳七の人柄に惚れたから、というようなことではない。明治二十八年の日清戦争後の金融界や産業界の流れ、証券界の動向などを精密に分析し、日露戦争後もその二の舞になると自重して「相場は狂っております」と警告した徳七の、その頭脳とデータを信じたからこそなのだ。  鈴久のようにイチかバチかの猪突猛進をやり、今様紀伊国屋文左衛門になって豪奢な暮らしをしたけれども、それは切れ味のいい男とは言えない。安田善次郎が言ったように「カネに殺された」だけにすぎない。日ごろは慎重居士でいながら、ここぞと確信したときには乾坤一擲《けんこんいってき》の勝負に出る……徳七のこの雄姿こそ、経済人としての切れ味のあざやかさなのである。  日露戦争後のパニックの端緒となる大崩落で徳七は、鴻池銀行などからの借金を清算してもなお、五百万円余を儲けている。淀川に身投げしなければならぬはずの彼は、一夜にして百万長者になったのだ。  徳七は野村商店内に、二五〇キログラムもある大金庫を購入して据えさせた。 「この中には百円札をびっしり詰め込めば、幾らになりますかねえ。そうなりたいもんだ」 弟の実三郎がそう言ったとき、徳七の答えは意外であった。 「いや、詰め込んでおくより、からっぽにしておきたい。この金庫から出ていった札束が、ほかの札束をつれてもどってくるようにするよ。金庫はそのためにあるのだ」  そういう金銭哲学をもっていた徳七は、儲けの半分を所持して、明治四十一年三月から五カ月間かけて世界周遊の旅に出かけた。 『村山龍平』のところで述べた——明治四十一年に村山龍平が企画した、朝日新聞社主催の世界一周会に参加したのであり、「英語はしゃべれん。右も左もわからん。せやけどこの機会に、どうしても世界を見ときたいのや。何かを肌でつかみとってきたいのや。わたしは大学にいっとらんけど、世の中のことを学ぶという点では、だれよりも勉強しとるつもりなんや。世界の中の日本は将来、どうあるべきか、それを識りたい」  これが目的で物見遊山ではない。朝日新聞といえば、徳七は当時から「これは大発展する新聞だ」と見抜いていて、野村商店の広告を同紙に出しては大いにPRしている。  彼はじつに貪欲であった。たんなる北浜の株屋ではなかった。ニューヨークのウォール街を見学するだけではない。モルガン財閥について研究し、アメリカ人気質を観察し、デトロイトのフォード自動車や、シカゴの大屠殺場ユニオン・ストック・ヤードの畜産品、日本にはまだないデパートなどに眼をみはるのだった。  トランクには収集したさまざまなパンフレットを詰め込み、「二十世紀はアメリカの時代である」と予言し、この時点ですでに彼は、外国株をあつかう野村商店ニューヨーク支店を開設するための構想を練っている。  ロンドンへいっては、大いに日本を憂えている。ウォール街には若い熱気がみなぎっていたが、ロンバード街は過去の遺産の上にあぐらをかいて伝統的権威を保っているにすぎない。明治政府が先進国のお手本としてあがめているイギリスの正体が、彼の眼には「朽ちはてゆく老大木以外のなにものでもない」と見えるのであり、ドイツの工業力に新しい文明を感じたのだった。  そして、ロシアでは人民娯楽場でウオッカを飲み、ロシア女と踊り興じて「近い将来、この国では民衆の革命がおこる」ことを予感しながら、シベリア鉄道で帰国した。  このように徳七は明治のその時代にはやくも、現代の世界の姿を完全に見通していたのである。  同時に、ますます調査と情報が必要なことを、彼は痛感するのであった。 〔大戦景気で大儲け〕  第一次世界大戦勃発(大正三年七月)直前にも、野村徳七は日本人としてただひとり、ヨーロッパ情報の早どりに成功している。  宇治電鉄建設のため招かれてきていたアメリカ人のヘンリーという鉄道技師が、フランス人の妻とニースへ帰ることになった。一夜、徳七はヘンリーを招待し、大阪の料亭で離別の宴を張った。そのさい、ヨーロッパ情報を打電してくれるよう依頼したのだ。  ヨーロッパ戦乱と、近代化する大正時代の日本を予測するため徳七は、海外情報を敏速に入手する機関をもちたがっていた。政府にも軍部にもそれぞれ特殊情報機関があるが、それらに勝るとも劣らぬ民間組織にしたいし、ヘンリーをその一人に加えたわけだ。  まもなく大戦の発端となるオーストリア皇太子暗殺のサラエボ事件が突発。ニースのヘンリーが約束どおり打ってくれた、大戦勃発必至の英文電報を徳七は受けとった。  当時は英文電報にかぎり、内容の如何をとわず自由に打電できたし、これだと日本の新聞がロンドン発電を報道するより一週間ないし十日間はやく、ヨーロッパ情報を掌中にすることが可能だったのだ。  ヘンリーの電報を受けとったその日から、徳七は軍需株、石油株、繊維株、医薬品株などを大量に買いまくった。日本の新聞が欧州大戦勃発の第一報を出したとき、投げ売りとなって株価はいっせいに暴落したが、徳七だけはせっせと買った。  暴落から暴騰へ転じた。大戦のおかげで好景気になったアメリカヘの輸出が急増。ロシアをはじめとして東南アジア諸国は欧州よりの輸入がストップしたので、日本に物資の買付けにやってくる……というふうで未曾有の戦争ブームになっていったのだ。軍需物資ばかりではない。靴や歯ブラシや石鹸などの日用品さえも、いくら生産しても追いつかない毎日だった。  徳七の持株は三倍四倍と高値を更新していった。笑いが止まらぬとはこのことであり、鉄道技師ヘンリーの一本の電報が、かくのごとく巨利をもたらしてくれたのである。  この大戦ブームでは株成金のほかに、造船成金、糸成金、紙成金、薬成金、海運成金、古鉄成金などが続出した。今日の伊藤忠商事の前身である伊藤忠合名会社、日商岩井の前身の岩井商店、日立造船の前身の大阪鉄工所など急成長したのも、この大戦を契機としてである。  なかでも海運界の船成金は驚異であった。内田汽船の内田信也を筆頭に、山下汽船の山下亀三郎、勝田商会の勝田銀次郎らはまさに、濡れ手に粟《あわ》の儲けっぷりだった。内田汽船の株主配当金はなんと六十割、一株五十円の株券に三百円の利子がつくのであり、日本経済史上最高の記録になった。  三井物産社員だった内田は、大戦がおこりそうだと知ると脱サラリーマンになってオンボロの汽船を一隻、月額四二〇〇円で借りた。これでアメリカからヨーロッパヘの軍需物資輸送の仕事を請負っているうちに、十六隻に所有船をふやし、六十割の配当ができる会社に、たったの一年で急成長させたのである。 〔船は沈没しても株は沈まない〕 「船を二万トンばかり買おう」と徳七が言いだしたことがある。  野村商店も海運会社を併営しよう、というのだが実三郎が猛反対した。 「船舶の需要は増大します。海運会社は持船を、フルにうごかしても追いつけなくなるでしょう。ということは運賃や傭船料の値上がりで、海運会社の営業成績は急上昇し、株価も高騰するわけだから、その株を買いこんでおけばいい。船は嵐やドイツの潜水艦攻撃で沈没するけど、株は沈みませんからね」  徳七は海運界の「調査と情報」に自信満々だったから、このときの決断も一人でおこなうつもりであった。だが、弟の「船は沈没しても株は沈まない」にいたく感心し、ほんものの貨物船を買うつもりが日本郵船株と大阪商船株買いに転進してしまった。  これがまた大当りしたのである。一二一円七五銭だった郵船株が二二九円五〇銭に、六〇円五〇銭の商船株も一四四円八五銭にはねあがったのだ。野村家の財産はこの大戦景気で三千万円にふくれあがった。  大戦景気の反動がいつ襲来するか、それを見極めるのがむずかしかった。見極めそこねて多くの船成金たちは「第二の鈴久」になってしまった。例によってへンリーが「ドイツの敗色濃厚、講和交渉近し」の英文電報をよこしてくれた大正五年末に、徳七は持株を機敏に売り逃げした。が、内田信也が十六隻の所有船を手放して危機一髪の脱出に成功したのみで、あとの成金たちは終戦と同時に襲来した船価暴落をもろにくらって、社会の底辺へ沈没していってしまったのである。  郵船株と商船株を大量に買いこんだころ、徳七は東南アジア諸国歴訪の旅へ出発している。欧州大戦では続々と新兵器が登場し、なかでも飛行機、軍用トラック、大砲などの進歩はめざましく、それらの車輪はすべてゴム製品であること。日用品にもゴムは多く活用されるようになること……それらを考えあわせて、まだ大戦中であるのにはやくも、「これからはゴムと石油が世界経済を左右させる。その時代がきている」と判断、東南アジアのどこかで広大なゴム園を経営したいと構想したからである。  そして実際に、「危険すぎる投資だ」として実三郎が反対するのも受けつけず、オランダ領南ボルネオに現在の後楽園球場の二百五十倍もの広さのゴム園を開設、九百人の現地人を雇用してジャングルを開拓させて南方事業に着手したのだった。大正六年、徳七四十歳のときである。南方進出にあたっての当面のライバルは、『後藤新平』に登場した鈴木商店の金子直吉であった。  証券界では「常勝将軍」の異名をとった東京の小池商店(のちの山一證券)の小池国三とともに「徳七はんは絶対に株では損しない男」といわれるようになっていた。  そのころになるともう、少年時代の「鴻池財閥ぐらいになってみせる」野望は棄ててしまっていた。というより、もはや凋落しつつある鴻池財閥など眼中になく、徳七はさらに巨大財閥である三井、三菱をターゲットに追いかけはじめたのだった。  ただし、三井も三菱も明治政府と癒着し、民衆の反感を買いながらも政商として太ってきた点を、徳七は軽蔑している。「わたしは独力で政官界などには頼らず、追いつき追い越してみせる。それでこそ大阪商人なのだ」と、つねに側近たちに語っていた。  三井財閥は番頭制度をとり、三菱財閥は集団経営をめざしているので、強烈な個性でひっぱってゆく最高首脳者がいない。それが徳七にはもの足りないのでもある。「人買い徳七」は飽くなく秀逸な人材をスカウトしては事業を拡張してゆくが、しかしどんな事業をやるにしても主役は、あくまでも自分なのであった。 〔自ら踏査したうえでの正確な判断〕  だれが言いだしたのか、野村徳七は「呑徳《のみとく》」と渾名されるようになった。「なんでも貪婪に丸呑みしてしまう野村《のむ》徳」という意味なのである。新しく企業を創業するばかりでなく、将来性のある企業をみつけると大株主になったり、買収合併もやるからである。  大正七年、資本金一千万円の野村銀行(現在の大和銀行)を創業して以後、その事業欲はとどまるところがなく「呑徳」ぶりをいかんなく発揮した。  まず三井合名、三菱合資を意識して「総司令部」である野村合名会社をつくり、それからの二十年間に金融資本家であるだけでは満足せず、産業資本家にもなるべく野村證券、野村信託、野村生命、野村製靴、蝶矢シャツ、野村製鋼、日東航空工業、野村産業技術研究所など、つぎつぎと十六社を創業。南方事業ではゴム、椰子油の生産のほかに野村殖産貿易会社やシンガポール野村商店、フランス領ニューカレドニア島では鉱山会社も経営し、ブラジルにはコーヒー園も所有して、「南洋事業の規模においては、三井物産をも凌駕した」と驚歎された。  傍糸事業としては大阪瓦斯、福島紡績、台湾繊維工業、東洋製紙、明治製革、杉村倉庫など十一社を傘下におさめた。経営資本は総額二四億三〇〇万円(昭和十八年)、情報財閥ともいわれて「札束の城」を築きあげたのだった。 「どこも不景気なのに、野村ファミリーだけが羽ぶりがいいのは、野村徳七が政治家と官僚からの特殊情報を得ているからだ。そのために政友会にカネをばらまいている」  と疑われて国会で問題になり、その儲けは奇利だと非難されるが、このとき徳七は憤然として独自の「民間情報機関」を育ててきたからにほかならぬことを明らかにした。彼にとって、そうしたたゆまぬ努力を認めてもらえず、奇利だと疑われることほど口惜しいことはなかった。  日本軍部が大陸経営のための満洲を「王道楽土」と喧伝して、日本人の満洲移民熱をあおった昭和初期、住友財閥をはじめとして三井や三菱もこぞって進出していった。鮎川義介は満洲重工業開発会社を設立して、日産コンツェルンを形成するに至った。  だが、野村コンツェルンだけはこの「北進」に参加していない。すでに徳七は中国全大陸をも自分の足で踏査し尽しており、朝鮮に野村林業を新設し、満洲野村證券をオープンさせるが、それ以上の進出はやっていない。  軍部も財閥も庶民たちも——つまり、猫も杓子も「王道楽土」をめざすので徳七は、天邪鬼《あまのじゃく》になってひとり背を向けたのではない。自分で踏査した結果、「満洲経営が日本経済の負担になりこそすれプラスにはならぬ。日本の将来は友好的に、南へ経済進出すべきが正しい」との確信があったためなのだ。  事実、それが正解だったことが証明されてゆくが、この時点においても三井や三菱は、ひたすら軍部に追従して企業利益を増大させたがっていたのである。その三井や三菱を急追しながらも徳七は、かれらの「北進」に対抗してあえて「南進」の姿勢を崩さない。そこにまた彼ならではの個性があるのだった。 〔「野村はあくまで野村なのだ」〕  東条英機の時代になって軍部が、北進戦略から南進戦略に転じて米英を相手に戦うようになったのは、ゴムや石油をはじめとする南方資源の確保が目的だったからだが、最初から満洲経営をあきらめて徳七の構想どおり、年月をかけて南への友好的な経済進出を実行しておれば、米英と戦うことにはならなかったかもしれないのである。  昭和十七年二月、鮎川義介は満洲重工業を経営してゆく情熱を失い、その総裁の座を高碕達之助にゆずっている。満洲の資源である石炭も鉄鉱も品質がわるくてものにならず、それではとばかり鮎川は、満洲産の大豆一万トンをドイツへ輸出すべくベルリンまで交渉に出かけるが、ケンもほろろにヒトラーに拒絶されてしまった……それが原因であり、「北進」の無意味さを思い知ったのだった。  ところが徳七は、満洲事変(昭和六年)前後から満洲や朝鮮を舞台に急速に伸展してきた野口|遵《したがう》の「日窒」、中野友礼の「日曹」、大河内正敏の「理研」などの新興財閥に対して、積極的に資金を融資してやっている。自分は顔をそむけているのに、北で冒険する若く新しい財閥らのカネの面倒をみる……そこらがいかにも「切れ者」らしい。思うに、かれらが満洲で三井や三菱に勝ってくれることを、徳七は期待していたのではないだろうか。  昭和八年、「関西財界の基礎を強化する」という目的で第三十四、山口、鴻池、野村の四銀行の合併問題がもちあがった。音頭をとったのは日本銀行理事の中根貞彦で、合併させることによって三井、三菱、住友、安田銀行に対抗しうる大銀行に発展させようというのであった。  日銀の威光のまえに第三十四、山口、鴻池はすんなり同意した。  徳七は、野村の幹部たちの意見を聴いた。  野村證券社長の片岡音吾はこう言った。 「わたしも合同論者です。野村家と野村銀行の将来という点からみて、このさい安全な道を選ぶべきだと思います。かりに三十四、鴻池、山口の三銀行が合併しても住友銀行に太刀打できます。そうなると関西では、住友とその合同三銀行が二大勢力と化し、野村銀行はことごとに圧力をうけて、なおさら苦しくなってしまうでしょう。率直に言わせていただくならば、このさい三十四、山口、鴻池の仲間はずれにならないこと、村八分にされないことが大事ではないでしょうか」  幹部たちもその気持であり、徳七は賛成したかの態度になった。新聞ははやくも、合同できたものとして報道した。  ところが、四銀行の資産内容検討会がひらかれ、各代表が一堂に会したとき、野村の関係者は出席しなかった。その日になって徳七が、幹部らが唖然とするのもかまわず、もののみごとに拒絶したのだ。新聞は「野村が土壇場で逃げた」と大騒ぎした。  結局、同年八月、第三十四、山口、鴻池の三銀行だけが合同調印をおこない、現在の三和銀行を誕生させた。資本金一億七二〇万円。預金額は当時、トップだった三井銀行の七億一千万円を抜いて九億九三〇〇万円。文字どおりの日本一の規模になったのである。  なぜ「野村が土壇場で逃げた」のか、永いあいだ徳七は黙して語らなかったが、彼の肚のうちはこうだったのである。 「合同することによって、野村の二文字が消えるのは忍びない。この二文字は永遠に残さねばならぬ。いまや野村は一流財閥だ。二流に転落している鴻池なんかと同席できるか」  因《ちな》みに、野村銀行の預金高は一億五千万円台、三和銀行の九分の一だった。いまに三和に復讐され、踏みつぶされるだろうと金融界では見物していたが、それでも徳七は「野村はあくまで野村なのだ」のプライドを堅持しているのであり、他を丸呑みしてもおのれは丸呑みされはしないぞ、という「呑徳」の本領発揮でもあったのだ。  今日、このような経営者のプライドを忘れていないのは、松下電器産業の松下幸之助氏のみではないだろうか。 「社名が松下で、ブランドがナショナルでは外国人に通用しません」  暗に社名もナショナルにすべきところへきているのに、と批判する向きもあるようだが、松下幸之助氏がそれをやらせないのはやはり、野村徳七に共通している。 〔徳七の「対米工作」〕  前述のように、東条英機が北進戦略から南進戦略に転じはじめると、逆に徳七は「ヨーロッパでソ連と戦っているドイツに呼応して、日本はシベリアへ兵をすすめるべきだ」と北進論を提唱するようになった。  外相松岡洋右がヒトラーと握手してのち、モスクワに途中下車してスターリンと「日ソ中立条約」を締結、意気揚々と帰国してきたときも徳七は、三歳若い彼にそのことを進言している。そこには鐘紡社長の津田信吾、大阪商船社長の堀啓次郎が同席していた。昭和十六年五月のことである。  徳七の気が変わったのではない。北進論はゼスチャーにすぎない。もし東条の号令一下、日本軍が南方諸国への武力侵略を断行すれば、大正初期からつづけてきた野村コンツェルンの南方事業が崩壊してしまう。 「何のために二十年間も心血をそそぎ、何のために巨費を投じてきた南洋事業だったか。三井、三菱、住友などがいかに兵器を量産しようと、ゴムと石油がなければ戦争には勝てないんだぞ」と叱りたいのであり、武力侵攻を阻止するだけでなく、日本軍の銃口をすべて北へ向けさせておきたいのだった。  だが「日ソ中立条約」まで締結してきた松岡洋右は、徳七の魂胆を見ぬいているかのごとく、こう答えた。 「あなたの南洋事業は保証します。わが皇軍が南方の拠点をすみやかに確保し、イギリス軍やオランダ軍に施設を破壊させるようなことは決してやらせません。日本は大東亜圏を支配するのです。むしろ、あなたの南洋事業はますます繁栄することになりましょう。その日は必ずやってきますよ、近い将来に」  海軍によるハワイ真珠湾攻撃と、陸軍によるマレー半島上陸作戦が敢行されたのは、それから半年後であった。  松岡の「あなたの南洋事業はますます繁栄する」を信じていなかった証拠に、徳七はこんな「工作」もやっている。  それは「対米借款に一役買いませんか」と政商Nがもちかけてきたのにはじまる。  有力なアメリカ人ジャーナリストと結び、日米貿易会社をロサンゼルスに設立する。日本側は半額の五億ドルを日本に信託預金し、必要物資をこの会社がひきうけて供給する。陸軍省もかげながら支持しており、野村コンツェルンが中心となって設立運動費を出してほしい、とNはいう。  すでにアメリカは日本との通商条約を廃棄し、ABCD経済包囲網を絞めあげつつあるときだ。こんなときにアメリカの民間人が、日本がほしがっている物資を都合できるわけない。都合できたとしても、日本の港に貨物船をよこすことは不可能だ。  とは思ったものの徳七は「頭から疑っていたのでは何も生まれぬ」のでOKした。  これは一種の民間外交だとも思った。こんなところから日米間の緊張がほぐれないともかぎらない、そうも考えたのだ。  さっそくアメリカヘ、野村證券常務の飯田清三ら三名の社員を、調査団として派遣することにした。が、Nが国際ペテン師である事実がバレて、徳七は「対米借款問題の狂言はついに尻尾を出した」と日記に書いている。 〔幸福なる死〕  しかし、徳七はそれっきりにしなかった。  それでも三名を派遣したのだ。派遣中に日米交渉が決裂し、お互いに宣戦布告をするかもしれない危険な時期にあってもだ。  三カ月後、調査団は帰ってきた。  日米貿易会社の一件は根も葉もない話だったことを、飯田清三らは報告したが、もうそんなことは忘れてしまったみたいな顔で徳七はねだった。 「きみたちはいい機会にアメリカを観てこれたじゃないか。さあ、アメリカの現実を話してくれよ。ほんとうに日本と戦うつもりなのか。何年で戦争をかたづける気なのか」  どんなこまかなことでもいいから「情報」として知りたがっているのだった。  陸軍省兵務課長のK少将が、 「N君の話は事実だったのに、すべては野村が、調査団を派遣するというような余計なことをして、ぶちこわしてしまった。日本にとって大損害だ」  と、強面《こわおもて》でねじ込んできた。だから、これまでNが運動費として使った一〇〇万円を、野村側でそっくり負担しろというのだ。  要するに、NとK少将がグルになって「アメリカびいきの野村徳七のことだから、うまい話にはパクついてくる」とみて計ったらしいのだ。詐欺であり恐喝である。  そうとわかっても、徳七は、「皇軍だの神兵だのとぬかすやつらのなかには、こういう手合がいるのだ」と、肚のなかで軽蔑しつつ、一〇〇万円はくれてやった。  もうすぐ日米は戦う。渡航は不可能になってしまう。飯田らをアメリカへ派遣して、最後のナマの「情報」を収集し得た。その貴重さにくらべれば一〇〇万円など、洟《はな》水をかんだチリ紙みたいなものだ……と徳七は思っているのである。  日本降伏が迫っていた昭和二十年正月十五日、野村徳七の六十八歳の生涯はおわった。死因は狭心症である。  敗戦を見ることなく昇天できたことは、彼にとっては幸せであった。なぜならば、敗戦によって徳七の南洋事業はゼロになったし、野村コンツェルンもまた三井、三菱、住友、安田などと同様、GHQ命令で「財閥解体」の運命になっていったからである。